• 御茶屋御殿とは

  •  1677年(尚貞王9年)、琉球一の風光明媚の地(首里崎山)に、薩摩の在番奉行を接待する目的で茶室を備えた館が建てられました。接待を担う御茶道長は湛水親方でした。
     5年後の1682年(尚貞王14年)、冊封使歓待のため茶室のない主殿を建立し御茶屋御殿と称し、茶室付き館は、御数奇座に改称されました。外国の使節を歓待する迎賓館であった御茶屋御殿では、首里城内で正式会見をした使節を供応接待し、和やかな雰囲気で懇談が行われました。歴代の冊封使は、ここが気に入り、多くの文章や漢詩を遺し、尚貞王の冊封使汪楫は、素晴らしい景色を讃えて「中山第一の景勝地なり」といい「東苑」と名付けました。
     また、当代第一の学者や芸能家など文化人を集めて、御座楽・歌三線・踊・組踊・唐踊・能・謡・華道・漢詩・和歌・琉歌・囲碁・唐手等一流の文化人にその技を披露させました。それらの芸能や文芸は、国王の前で披露されるのが中心でありましたが、その場所に庶民も招かれることもあった様です。庶民から大いに愛され喜ばれる様子は『拝でのかれらぬ首里天加那志 遊で逃れらぬ御茶屋御殿』と琉歌に詠まれ、琉球古典音楽「茶屋節」に乗せて謡われています。歌意は、御茶屋御殿に芸能を見に来たら国王を拝むことができ嬉しく、何時までもここに居て拝み、芸能を鑑賞したというもので、まさしく庶民の歌であります。
     御茶屋御殿は、首里王府が外交を進める上で重要な施設で、併せて江戸上りの楽童子が教育を受ける等、琉球を代表する文化人を育成する役割も果たしました。
    更に、首里城と表裏一体となって琉球王国の外交を担い、宮廷文化・首里文化・琉球文化の発祥の地であり文化の殿堂でした。
     昭和6年に来沖された旧国宝保存法の諮問機関である国宝保存会の阪谷良乃進氏(幹事)は、琉球建築として格式の高い館をご覧になられ、その際、作成された「沖縄県下国宝指定建造物資料」の中で、御茶屋御殿を「国宝指定の第一候補」に位置付けておられます。